釣り人はバカ?



 「釣とは糸の先に魚が付き、もう一方の先にはバカが付いているものである」という諺がありますが、このバカという意味が昔と今では違うんですね。

これは、12月6日にテレビ朝日の小宮悦子さんがメインキャスターを勤めるスーパーJチャンネルというニュース番組で放送した「新・怒りの導火線」という特集の最後に、コメンテーターの轡田隆史さんが言った言葉です。

もちろん昔のバカとは「釣りバカ」というという意味で、今のバカとは「ただのバカ」という意味。

「釣り人=バカ」
これだけ聞けば、釣り人の誰もが怒る事でしょう。

しかし、怒ってはいけません。
これは本当の事だからです。

こんな事を書くと、貴様はどちらの味方なんだ!
とお怒りになる方もいらしゃるでしょう。
もちろん、僕は釣り人の味方です。

でも、僕は間違った事を言っていません。

あの全国に放送された番組の中では、誰もが「釣り人=バカ」と思う構成になっていたのです。
圧倒的な説得力を持つ映像で!

だから番組の中において[釣り人=バカ」は真実だったのです。

釣り人が釣り場に捨てた大量のゴミの映像。
立入り禁止区域に入ろうとする釣り人。
注意されると、カメラに向かって逆切れし暴言を吐く映像。
釣り糸が羽に絡まって、傷ついた海鵜。
釣り糸が足に絡まって片足が壊死し、歩くたびにひっくり返ってしまうカモメ。

そしてクライマックスは

人間の耳やオデコに釣り針が深々と刺さった映像!

これが目元に釣り針が刺さった「アザラシのタマちゃん」の映像と共に流れました。

もちろんニュース番組ですから抜かりはありません。
医学的な立場から「ウチの病院には年間50人以上の人が釣り針事故で運ばれてきます」という医者のコメント。
両面取材ということから釣具屋さんの「釣り針はカエシが付いているので、一度刺さると抜けません。」というコメントもバッチリ。
最後に子供を抱いた母親が「怖いですねぇ〜」と眉間にシワをよせてコメントして締めくくり。

PERFECT!
完璧です。
番組の中で「釣り人=バカ」は証明されました。

しかし、これで満足するほどマスコミは甘くありません。
番組は更に暴走します。

釣り人はゴミを捨てる。
釣り人は立入り禁止区域に制止も聞かず入り込む無法者だ。
釣り人の使う針というものは、危険なものだ。

このように視聴者に強調した後、
行政が東京湾のあちこちに作った柵で囲まれた「釣公園」という施設を紹介し

「東京湾では、釣公園以外での釣りは禁止されている」

こう番組は主張したのです。

遠まわしな言い方ですが
釣り人はモラルのない危険なバカだから、釣公園という柵の中に隔離して遊ばせるべきだ。
と僕には聞こえました。

いったい釣り公園以外で釣りをしてはいけないと、誰が決めたのでしょう。

日本の海岸線は全て国有地ですから所有者である国でしょうか?
そんな事は聞いた事がありません。
だいたい国の所有物なら、国は国民のものですから、誰もが自由に出入りできる事が原則であるべきです。

東京湾は神奈川県と千葉県と東京都で構成されています。
それぞれの地方自治体が協議して決めたのでしょうか?
これも聞いた事がありません。

番組に問い合わせたわけではありませんが、番組に港湾局の職員の方が出ていましたので、「京浜工業地帯一帯において釣りは禁止されている。だから行政は釣公園という施設を作った」という説明を拡大解釈したのだと思われます。

これはムチャクチャな理屈です。

富士山に大量のゴミが捨てられているのは登山をする人間が悪い。
登山家はモラルがなく自然破壊をするバカだ。
今後、富士山に登る事を禁止する。
そのかわりに登山専用の山を全国に何箇所か作るから、利用料を支払って柵で囲まれ管理された山だけ登りなさい。

こう言っているのと同じです。

だけど、富士山がどんなに汚れても、登山家がバカ呼ばわりされる事はありません。
隔離施設を作ろうなどと言い出す人はいません。

なぜ登山家はバカ呼ばわりされなくて、釣り人はバカ呼ばわりされるのでしょうか?

富士山の掃除をしている登山家やエベレストを掃除する登山家はテレビで紹介されますが、海辺を掃除する活動をしている釣り人がテレビで紹介された事は記憶にありません。

世界記録を塗り替えた登山家は国家的英雄として扱われますが、丸橋栄三が何度世界記録を塗り替えようがニュースで取り上げられることはありません。

同じ自然の中で遊ぶスポーツなのに、扱いに差があるのはなぜでしょうか?


僕たちは、少し胸に手を当てて考える必要があるのかも知れません。
釣り人は世間から尊敬される存在ではないという事を自覚しなくてはいけないのかもしれません。
悲しい事だけど、釣りが健全なスポーツだと思われていない事は事実のようです。


もう、大漁!と喜び、クーラーボックスを一杯にする事を釣りの目的とし、趣味と食料調達という実益を兼ねたリクリエーションなどと言っている時代ではないのかも知れません。

僕たちが愛している釣りという遊びに対して、僕たちが真に求めているものは何なのでしょうか?
魚を釣りたいという気持ちの奥底には何があるのでしょうか?

釣りの楽しさとは、狩猟本能に基づく欲望を満足させる行動です。
そして、釣った獲物を食べようとするのも食欲という「本能」です。

しかし、「本能」を「理性」でコントロールし、繁殖能力の高い大型は逃がし、数の多い小型だけ食べるという人も居ます。
もちろん基本的に釣った魚は全部逃がすという釣り人もいます。


これら、釣り過ぎないようにセーブするという行為は「本能」ではなく「理性」です。

また、サーフェースなどにゲーム内容を絞り込んで工夫し、より多くの魚を釣る事を目的としないスタイルもあります。

これは大きさや数という「量」を求める本能の欲求を視覚的な快感に転換するという「理性」がなせる工夫です。

事故を未然に防ぐためにカエシを潰すという行為も「理性」です。
ゴミを捨てないというのも「理性」です。


時代は、釣りが「本能」だけに従う遊びから、「理性」に支配された遊びにならなければいけない時期にきているのかもしれません。


登山家が山に求めるものと、僕たちが海に求めるものに 何ら違いがないのだという事を自覚しなくてはいけません。


僕は自然の中で釣りをするアングラーが無法者呼ばわりされる時代なんてまっぴらです。


魚を通じて自然を知り、自然の中で遊ぶスポーツとしての認知。

釣果と言う結果を求めるゲームから、プロセスを楽みとするゲームへの脱却。

そこに、僕たちの未来があるような気がします。